はじめに
~注射器、医療用麻薬、そして白い粉薬~
2001年9月11日に発生した米国同時多発テロ事件以降、世界の空港では、テロ対策としての手荷物検査が強化されるようになっています。そのため、「英文薬剤証明書」(表1)を持参せずに旅行する日本人観光客のトラブルが激増しています。
米国やヨーロッパなどの先進国、東南アジアなどの途上国を問わず、世界各国には麻薬の取り締まりに関する法律があります。原則、注射器、注射針、医療用麻薬、睡眠薬、向精神薬は出入国に際して、厳重なチェックが行われます。
注射器や薬剤等を海外へ持ち込む際の標準ルールを米国の例で解説します。ヨーロッパ諸国、オーストラリア、東南アジアでもほぼ同様のルールとなっています。
インスリン注射やインターフェロンを打ちながら旅行する人が、使い捨ての注射器や注射針を持参する場合は、必ず英文薬剤証明書が必要となります。これは、麻薬や覚醒剤の使用に悪用されるのを防ぐためです。ほとんどの国において、出入国時の取り締まり項目に注射器と注射針が該当しています。
必ずしも申告する必要はありませんが、手荷物検査でチェックされた場合、適切な証明書の呈示がないと「没収」が原則であり、不自然な量の注射器を持参していると、疑いが晴れるまで留置されるケースもあります。
自己使用の医療目的であること、つまり他人に売ったりする意図のないことを明確に記載し、品名、数量、処方した医師名、連絡先(住所、メールアドレス、携帯電話番号)とサインが最低限必要です。できなければ施設名が英語で印刷した用紙を使用しましょう。
欧米人は、必ずこのような書類を持参して旅行しますが、日本人旅行者の多くは、旅行会社や主治医から正しいアドバイスを受けていないため、証明書を持たずに旅行しているのが現状です。
ヘロインやコカインなど習慣性の高い麻薬を合法としている国は1か国もありません。日本人には、意外と思われるかもしれませんが、適切な表示のない白い粉薬は、たとえかぜ薬でも入国時にすべて麻薬の疑いをかけられます。日本語のみの表示に加え、言葉のハンディで起こるトラブルも少なくありません。そのため、薬剤を必要とする可能性が高い日本人の高齢旅行者、障がい者や長期滞在者等は、薬を持参する場合、英文薬剤証明書を必ず用意しなければなりません。
また、がんの痛み止めとしての医療用麻薬類、睡眠薬や向精神薬を持参する場合は、英文薬剤証明書を必ず用意し、申告することが米国の連邦法で定められています。
表2は米国における薬剤持ち込みに関する現行のルールです。この手続きの法的根拠はFederal Controlled Substance Act(麻薬取締法)によります。正式な法律名はComprehebsive Drug Abuse Prevention and Control Act of 1970で、その後、何回か部分改定が行われています。第Ⅰ群(Schedule Ⅰ)から第Ⅴ群(Schedule Ⅴ)に麻薬や睡眠薬が分類されていますが、このうち、第Ⅰ群(ヘロイン、LSDなど)の所持は犯罪となります。第Ⅱ~第Ⅴ群の持ち込みは、英文薬剤証明書と申告が必要です(表3)。
1.オキシコンチンは?
米国の医療現場では、オキシコンチンは抜歯のあとの痛み止め、けがの縫合後の痛み止め、膝痛や腰痛に広く用いられ、日本の医療現場の「ロキソニン」に相当する使い方がなされています。
一方、日本では、同薬はがん末期の疼痛用麻薬として規定されています。膝の慢性疼痛用に家族から同薬を送ってもらったことで、トヨタ自動車の女性米国人重役が麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたことは、皆さまの記憶にあると思います。
事件当時、私のクリニックで点滴を受けていた、ニューヨークの大病院のER主任ナースに、新聞記事を見せると「一般的な痛み止めで逮捕され、こんな大げさな報道がされるとは信じがたい!」と非常に驚いていました。オキシコンチンに関しての日米の医療文化のギャップは、片方の事情しか知らない人にとって、天地ほどの落差があります。
2.ロヒプノールは?
ロヒプノールは、日本を含め約60か国で、睡眠薬として流通しています。しかし、米国では、かつて犯罪に多用されたため、製造も流通も法律で禁止されています。
薬理的には第Ⅳ群(ScheduleⅣ)の薬ですが、米国の改正法では第Ⅰ群(ScheduleⅠ)として扱われ、原則として少量では没収、多量に持っていると重罪になります。米国の関税や入国関係のホームページには、特別扱いで警告されています。しかし、日本ではこうした情報が、旅行会社からも、薬を処方する医師からも旅行前に提供されることはほとんどありません。したがって、遅かれ早かれ、トヨタ自動車の女性米国人重役の逆バージョンが、日本人旅行者もしくは日本人駐在員に起こることが予想されます。
英語が堪能でない日本人が白い粉薬を多量に海外へ持参したならば、麻薬の疑いが晴れるまで、入国時に足止めされるリスクを負います。注射器、治療薬としての麻薬類、睡眠薬、向精神薬等を海外に持っていくときは、英文薬剤証明書を持参するのが世界の標準ルールです。
■参考文献
・『旅行医学質問箱』、メジカルビュー社、2009
・『実例による英文診断書・医療書類の書き方』、メジカルビュー社、2013
・『公衆衛生情報』、2015年6月号、22-23、日本公衆衛生協会